いかないで光よ、わたし達はここにいます
言葉にならないことを言葉にしようとするとき、
言葉にならない、と言ってしまうのはいささか面白みに欠けるだろう。
だったら別の話をしよう。
日比谷公園の売店にある小さい商店のおじさんは、ビールを買った人みんなに
おつまみとして柿ピー的な小袋をおまけでつけていた。
ceroは言う、ぼくらは雨男ですと。
ceroは問わない、ぼくらはなぜここにいるのかと。
ぼくらはただここにいるし、
そうすると雨がふるかもしれないし、
風が吹くかもしれない。
面白いかもしれないし、
不愉快かもしれない。
あきらめでもなく、希望でもなく。
とりあえずここで、コンテンポラリーなトーキョーをクルーズしてる。
ただそこに少しだけ、
柿ピー的な小袋を添えてみたらどうなるかということをうたっているのかもしれないし、
別にそんなことでもないのかもしれない。
言葉ってのは増やしただけ意味が増えるわけでもないし、
音楽ってのは鳴らしただけで全ての意味が消えていくわけでもない。
すべての言葉は柿ピーの中に。
いかないで光よ、わたし達はここにいます。
いかないで。